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自由

 

真実と光と至福を求める求道者のみなさん、私は今日、この八月大学に来ることができてとても嬉しく思います。この大学は、前進することを何よりも愛しています。私たちの精神生活も同様に、ただ一つのこと、つまり前進することに関心があります。成功ということに関心はありません。ただ前進することにのみ関心があり、前進する中で私たちの大きな成功がぼんやりと現れてきます。今日の成功は、明日の達成のための始まりです。成功は私たちに満足を与えませんが、私たちが前進するとき満足を手にします。前進は私たちの中で私たちを通して働く神のご意志であり、安全に究極のゴールへ私たちを連れて行きます。

 

今日、私は自由について少しお話ししたいと思います。私たちは皆、自由が何であるかについて知っています。なぜなら、自由は一人ひとりの魂にとてもなじみのあるものだからです。自由を愛する国として、アメリカはその先頭に立っています。さてみなさん、おそらくあなたがたの方が私よりも自由についてより多くを知っていることでしょう。しかし、精神的な観点から言えば、限りない真実を求める求道者のために、私は精神の自由、内なる自由に関する二、三の言葉をお話ししたいと思います。

 

自由とは何でしょうか。自由とは、光、満ちあふれる光、無限を求める、私たちの意識的、自発的、無欲の探究です。

 

光には二種類の光があります。外的な光と内なる光です。外的な光は、私たちを暴き出し、精査し、裁きます。内なる光は、私たちを目覚めさせ光り輝かし、そして満たします。

 

一度私たちが熱望の世界に入ると、三種類の自由があることを理解することになります。それは、動物の自由、人間の自由、そして神聖な自由です。動物の自由はまったくの破壊を楽しみます。人間の自由は束の間の、あるいは失望させるような喜びを楽しみます。神聖な自由は光り輝き満たされている一体感を楽しみます。動物の自由と人間の自由は、地上に縛られた自由です。神聖な自由は天上の縛られていない自由です。地上に縛られた自由は、私たちの照らされていないエゴを至上とする歌です。天上の縛られていない自由は、私たちの現実の完璧さと神聖さの顕現の歌です。

 

今日の世界では、人と完璧さは完全に見知らぬもの同士です。明日の世界では、人と完璧さは懇意な友、光り輝く友人、満たされている兄弟となるでしょう。今日の世界のマインドでは、神聖な顕現はまったく不可能です。しかし、明日の世界の心では、神聖な顕現は間違いなく必然的なことです。

 

精神の自由は、自己が創った束縛の泥沼から解き放たれたものです。肉体が無知の泥沼から解き放たれているとき、肉体は神聖に人の中の神に奉仕します。活力が無知の夢の攻撃性から解き放たれているとき、活力は神聖に人の中の神を愛します。マインドがその小さく限られた無知の洞窟から解き放たれているとき、マインドは神聖に人の中の神を表わします。心がその不確かな監獄の箱から解き放たれているとき、心はいつもこの地上とあの天上でスープリームの導き手を感じます。

 

精神生活では、私たちはスピードを必要とします。私の偉大な喜びに対して、私たちはデトロイト、自動車世界の中心都市、スピードの街のとても近くにいます。内なる生活では、スピードとは熱望です。熱望がなければ、スピードはなく、神の実現ははるか遠くのままです。私たちはインドの牛が引く荷車のスピードと現代のジェット飛行機のスピードを知っています。熱望は現代のジェット飛行機のスピードを出します。熱望とは、常に超えていくかなたのゴールに辿り着くときにのみ満足を見つけだす、心の燃え上がる叫びです。一度そのゴールに辿り着くと、内なる存在に自由が押し寄せて来ます。この自由とは、私たちに栄養を与え、私たちにエネルギーを与え、そして人間性の飢えを満たします。

 

まさに今、あなたが「自由を必要としているのは誰ですか」と問うなら、私たちは、すべての人々が自由を必要としています、と答えます。もし「誰が自由を手にしていますか」と問うなら、誰も自由を手にしていないというのが答えです。しかし、もし精神生活へと進みはじめ、その道に献身的に心を込めて不断に従っていくなら、今日の束縛は明日の自由へと変わっていくことができます。外的な自由は束の間のものであり、まずいことに満足感に欠けています。内なる自由は、私たちに真の永続する満足感を与えます。私たちが満足感を得るまでは、いつでも満たされずむなしいままでしょう。

 

満足感を私たちの生活に持ち込むために、私たちは内奥深くで泣き叫びます。神の時間が私たちの熱望の生活を打ちはじめると、私たちは自由の人になるだけでなく、自由を愛する人になります。そのとき私たちは人間を、具現化され明らかにされ顕現された神聖なる自由とともに変容します。

 

今私たちはミシガン州にいます。この州のモットー、「もし気持ちのよい半島を探し求めるなら、あなた自身を見てみなさい」は、精神的な観点からみてとても意義深いものです。精神生活では、私たちは精神的な半島を探しています。この半島とは、愛、献身、明け渡しです。神聖な愛、神聖な献身、神聖な明け渡しです。人間の愛は束縛しますが、神聖な愛は広がります。人間の献身は私たちの無意識の執着ですが、神聖な献身は私たちの究極の現実の意識的な気づきです。人間の明け渡しは奴隷がおこなうご主人さまへの明け渡しですが、神聖な明け渡しは限りあることがおこなう限りないことへの明け渡しです。この明け渡しは、意識的に全霊を傾けた不断のものであり、そのおかげで人間は人間の源である神を実現することができるのです。

 

神の実現の後には、限りある人間の生活は無限なことと分けがたくひとつになります。そのとき、無限なことはそのとても魂に満ちた歌、神の現実の歌を歌い、そして限りあることはその永遠の歌、千年期の叫びを歌います。

 

私たちが精神生活に入るその瞬間、一つの崇高な考え、言葉、アイデアが私たちにとって最高のことになります。それは「意識」です。とても奇妙なことに、このような存在の状態は、湖の中に溢れています。湖は水から成っていますが、この水とは意識のことを意味します。意識と精神性を分けることはできません。

 

私たちの意識が気づきの最高のレベルに昇るとき、光り輝く夜明けが訪れます。私たちの意識の翼を広げるとき、私たちは不死の空へと飛んでいきます。それぞれの求道者は意識的に自分の意識を広げ、光り輝かせ、満たそうとします。というのは、求道者の意識の広がり、輝き、充足において、求道者は現実の神聖なスープリーム、求道者の源、ゴールとひとつになるからです。

 

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1974 年 2 月 12 日午前

ミシガン州、アン・アルボー、

ミシガン大学、ラッカム・ホール