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瞑想とは何か

瞑想と精神的訓練なくして

平和を望むのは

砂漠の中で水を捜すようなもの

 

              瞑想とは何でしょうか?瞑想とは人の自己覚醒と神(至高なる者.宇宙意識の自己提示です。この二つが調和するとき、内界において人は不滅となり、外界において神が成就されます。瞑想は私達にただ一つのことを告げます。それは「神が存在する」ということです。そしt瞑想は、ただ一つの真理を表します。それは「私達は神のヴィジョンである」ということです。

              では、なぜ、瞑想するのでしょうか?それは現在の世の中が、私達に充足を与えてくれないからです。たとえば私達が、日頃感じている平和を例にとって考えてみましょう。それは何時間も続く不安、失望の後のほんのわずかな安らぎにすぎません。私達は、常に嫉妬、疑い、恐怖、不安、絶望といった否定的な力のなすがままになっています。このような力は、言ってみれば猿のようなものです。私達を襲ってきては時々それに飽きて休みをとります。そのつかの間の休みを私達は平和と呼んでいるのですが、しかし次の瞬間には猿は再び飛びかかってきます。

              継続する平和、神聖な安らぎは、瞑想を行って初めて手に入れることができるものです。朝、心を込めて瞑想し、ほんの一分でも平和を得ることができれば、その一分の平和は、その一日に浸透していきます。そして至高の瞑想を行うことによって、真に継続する平和と光と喜びを得ることができるのです。本当の平和と喜びを求め光の中で成長したいと思い、その光の中で自分を成就させたいという、せつなる望みを満たしてくれる唯一の道、それが瞑想です。

              自分が現在所有している物や現在の自己に満足している人は、瞑想を行う必要はありません。内的渇仰の存在こそが瞑想の道へ入る理由だからです。私達は自分の内側に何か広大なもの、輝く神聖なものがあると感じています。そしてそれをとても必要としているのです。しかしそれをどうやって手に入れたらよいのか、今はわからないでいるのです。つまり私達の渇仰は霊的必要から出てきているのです。

              世の中から逃避し苦しみを忘れるために瞑想の生活に入るとしたら、その動機は間違っています。人生に対する不満や失望から霊的生活に入っても、そこにとどまっていることはできないでしょう。私達は「自分の望みがかなえられなかった」と言っては世の中に失望し、そのくせ次の日にまた「もう一回やってみよう。今度はうまくいくかもしれない」と考えたりします。けれども少したてば、そんな欲望の生活は決して自己を満たしてくれないということに気づくはずです。そして「自分は何か広大なものから生まれたのだ。だからその無限の広大さの中に戻っていきたい」と感じるようになります。これが渇仰心なのです。

              渇仰の生活に必要なものは神だけなのです。私達が神を求めれば、神は必ず御自身を与えて下さいます。しかしそれは、神自身の方法でなされることですから、私達は何かあるものを求めて祈り、瞑想し、たとえそれが与えられなくともやはり満足してこう考えます。「神は私にとって何か最善であるかをよくご存知なのだ。今の私にはそれを受ける準備ができていないけれども、それができたときにはきっとお与え下さるだろう」。渇仰の生活で私達に充足を与えてくれるものは、何かを達成することではありません。せつに望む心、渇仰心それが私達の充足となるのです。

              精神性は、無理に獲得するものではありません。霊性的な光を無理やり自分のもとへ引き降ろすことはできません。私達の渇仰心の上に、その光が自ずから降りてくるときに初めて受けとることができるのです。そうでないと、私達の受容能力以上の光が器に入ってきて壊れてしまいます。瞑想は、五分か十分ただ静かに座っていることではありません。意識的な努力が必要です。マインド( 訳注 思考や感情などのこと)を平静にし、同時にいかなる思考も欲望も入り込ませないように用心しなくてはなりません。これができれば、自分の内に新しい創造物が生まれつつあるということに気がつくはずです。マインドが空っぽで静かになり全存在が空の器になれば、内的存在は、無限の平和と光と至福が入ってきて、いっぱいになるようにと祈り願うことができるのです。

              瞑想をしているのは自分であると考えている内は瞑想は難しいものに思えますが、実際は私達が行うものではなく、内的導き手.至高なる者によってなされるのです。至高なる者は私達の内で常に瞑想しています。私達は単なる器であり、至高なる者にその全存在を満たしてもらうだけなのです。最初は自分の努力で始めるのですが、一度内に深く入っていけば瞑想に入らせてくれたのは自分の力ではないことがわかります。私達の覚醒した意識と調和と共に、自分の内側で瞑想しているのは、至高なる者なのです。

              瞑想の究極の目的は、神との意識的一体化を確立することです。私達は皆神の子供です。しかし今は神との一体化を確立していません。神の存在を信じている人もいますが、その信念はその人の生活において現実のものとなっていません。ある聖者あるいは霊的導師が「神が存在する」と言ったからとか、また霊的な書物にそう書いてあったからという理由だけで信じているに過ぎません。しかし瞑想を実習すれば、神の存在が現実化する日がやってきます。そのとき神は、私達に無限の光と至福を与えて下さいます。そして私達はその中で成長していくのです。

              シュリ.クリシュナは瞑想して聖なる愛の神になりました。仏陀は瞑想して聖なる光の神となり、キリストは瞑想して聖なる慈悲の神になりました。そして今、神は私達が瞑想することを望んでいらっしゃいます。神は私達が聖なる命の神となることを望んでいらっしゃるのです。