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明け渡し

(抜粋)

 


わたしには

 恐れから 明け渡しをするときがありました

でも このような明け渡しは

 わたしはなんて役に立たない 無能で価値のない者なのだと

 感じさせただけでした

 

今 わたしが明け渡しをする相手 その人は

 わたしの中の現実

 わたしの中のスープリーム

 わたしの中の内なる導き手

 わたしの中の神聖な愛する者

       神聖な愛される者

 

今 わたしの明け渡しは 押し付けられたものではありません

今 わたしの明け渡しは わたし自身の広がり

 

今 わたしの明け渡しは

 おのずから光り輝く歌

 自己の完成の歌

 わたしの中の 神の実現の歌

 


 

明け渡しができる前に

必要なのは 愛と献身の力

 

もし 愛と献身を感じないのなら

明け渡しのために

 なにが必要だと言うのでしょう

 

わたしに 何者かへ明け渡すことを強いる

 そんなことができる 一体なにごとが

  あるというのでしょう

わたしが明け渡しをするのは

 ただ 愛を感じているから

  わたしに献身の心があるから

 

神は 決してわたしに

 明け渡しを強いることはできません

どの瞬間にも

 神を愛し 神へ捧げる

  その必要性を感じなければならないのは

 このわたしなのだから

 

 


完全に 明け渡されるとき

 そう それは 神のご意志に明け渡されるとき

わたしは 溢れんばかりの喜びを

 受け取るでしょう

 

心はすべて 喜びとなり

 尽きることない喜びに 生きるでしょう

説明は不可能となり

 意味を与えることはできません

 

朝早く目が覚めたとき

 はじめに訪れるのは

  とても甘美な感覚 溢れる感動

壁に触れると 喜びが沸き出し

鏡に触れると 喜びが溢れ出す

わたし自身の喜びが

 見るものすべてに入っていきます

 

 


お祈りをするとき

 手を合わせて あなたに拝むとき

わたしに喜びが 訪れます

 

愛すとき

 心が敬愛の涙を流して 愛すとき

一層の喜びが 訪れます

 

明け渡すとき

 欲望の世界と 熱望の太陽を

  あなたに明け渡すとき

この上ない喜びが わたしに訪れます

 

 


普遍なところへ入るとき そうするときにのみ

 わたしは幸せになれるのです

 

個別性と個性は

 普遍なところからのみ満足を得るのです

 

小さなひと粒の水滴は

 大海原へ入り その個別性と個性を失うとき

  無限なる海になるのです

 

けれども もしも その前に

 水滴が 自分の個の存在のために闘うなら

  たんなる小さな水滴として いったい何ができるでしょう

 

分離した感覚を維持することで 満足が得られるのだと

 水滴に思わせているのは

  それは水滴の中にある無知です

 

それは愚かなことなのです

 

 


特別な日が明けるとき

 新しいきっかけが

  訪れます

 

毎日 わたしは

 喜びの明け渡しに努めます

でも 特別な日が明けるとき

わたしの喜びの明け渡しは

 甘美な夢ではなく

 生きている現実になるのです

 

特別な日に

わたしは 神のご意志への

 完全で絶え間ない明け渡しへと

 意識して進んでいくでしょう

なぜなら わたしは知っているから

 ほんの一瞬たりとも

  神のご意志を満たしてないことを

 わたしは 知らず知らずに

  貴いわたしの精神生活で

   莫大な困惑と まったくの災難に

    進んでいることを

 

 


以前 わたしには

 たくさんの敵がいると思っていました

 だれにも明け渡したくないと

  思っていました

 世界は全部 わたしの敵だと思っていたから

 

でも 今のわたしは はっきりと知っています

 わたしには たったひとつの敵がいると

 その敵は わたし自身であると

 

今 わたしは

 まさにわたしを明け渡しているから

  わたしの主 スープリームに 明け渡しているから

 わたしに 敵はいない

 わたし自身でさえ 敵ではない

 

わたしには まさにひとつの友がいる

 わたしのあまねくゆきわたる ひとつの友

  わたしの源 愛すべきスープリーム

 その心のなかに

 

 


神のことを思うとき

 神はわたしのなかでふるまいます

 

わたしが神を愛すとき

 神とわたしが一緒になって

  どのように進むのか

 神はわたしに教えてくれます

 

わたし自身を神に捧げるとき

 神はわたしを通してふるまいます

 

わたしの生を神に明け渡すとき

 神はわたしのなかでふるまいます

  わたしとともに

  わたしを通して

  わたしのために

 

 


わたしは 愛と献身と明け渡しの道を

 歩みます

 

はじめに わたしの愛を

 神に捧げ

それから わたしの献身を

 神に捧げ

最後に わたしの明け渡しを

 神に捧げます

 

わたしの愛を神に捧げるとき

 わたしは感じます

  神が唯一であると

  神の愛が必要だと

   わたしが前進していくために

 

わたしが神を愛すとき

 わたしは発見するのです

  神は わたし自身以上の

   何ものでもないと

 わたしの より高い存在以外の

  とっても光り輝く存在以外の

   何ものでもないと

 

 


怠惰な明け渡し

 まったくの無力さと

熱い想いで充電された

 力強い明け渡しのあいだには

とても大きな違いがあります

 

もしも 明け渡しが 怠惰 無力さからのものなら

わたしは言います

 「わたしは明け渡しています

  もう何も望みません」

これでは 十分ではありません

 

わたしの明け渡しは 力強くなくてはなりません

 いつでも 熱望していなくてはなりません

  無限のかなたへ 成長し

   深く進んでいくようにと

 

 


わたしの明け渡しは

 意識的に 自発的に なされなければなりません

 

意識的に 自発的に

 無限の真実 平和 光 無上の喜びへと

  明け渡すとき

わたしは完全な水路になるのです

 これらの資質が

  現世にいるわたしのなかで わたしを通して

   現れるための 水路となるのです

 

 


祈るとき

 わたしの永遠なる友は

  わたしの祈りに耳を傾け

  わたしの祈りを満たします

 

冥想するとき

 わたしの永遠なる友は

  わたしの内なる要求に入って来て

  わたしの内なる要求を満たします

 

祈るとき

 わたしは話し 友は耳を傾けます

冥想するとき

 友は話し わたしは耳を傾けます

こうして 会話を交わします

 

祈りと冥想は

 この上なく 大切なものです

  わたしの熱い想いの生活に

  内なる導き手のご意志に 捧げ 明け渡す

   わたしの生活に

 

 


冥想するとき

 沈黙の内に成長しようとします

主 スープリームが

 主の聖なる座を

  わたしの心の最奥に置くことができるように

   受け入れられるようになろうとします

 

沈思するとき

 わたしは内なる導き手と

  ひとつになろうとします

 そして 小さい「わたし」を

  あまねくゆきわたる「わたし」に明け渡そうとします

 

 


祈りは必要です

 そして 冥想も必要です

でも 冥想を経験するなら

 祈りは必要ありません

 

祈るとき

 わたしは話し 父なる神は耳を傾けます

冥想するとき

 父なる神は話し わたしは耳を傾けます

 

わたしが話す必要のないときが

 やがて訪れます

なぜなら わたしは

 スープリームの意識を奏でる楽器になるから

 

わたしが完全に明け渡すとき

 神は わたしのなかで わたしを通して ふるまうでしょう

一度 精神生活の深いところへ行き

 わたしの冥想が 深いものになるなら

  わたしは 神に耳を傾け

   もはや何かを問いかける必要はなくなるのです

 

 


明け渡しとは

 新しい土地へ行くようなことではありません

わたしの源の土地に

 わたし自身の家に

  戻るようなものです

わたしの源へ 戻るようなものです

 

いやいやながらの明け渡しでは

 源へは 辿り着きません

 家に辿り着く前に 迷子になってしまいます

 

喜んでの明け渡しなら

 わたしの源へと進みます

  すべてが至福である源へ

 そして しばらくそこに留まるのです

 

それは 花屋さんに入ることに似ています

 花の香りが

  すぐにわたしに押し寄せます

恍惚と光のあるところに入ると

 そのような性質が

  確かにわたしに押し寄せるでしょう

 

 


わたしは 神がどこにいるのか 知りません

わたしは 神が誰なのか 知りません

わたしは わたしの魂がどこにあるのか

 それが何に見えるのか 知りません

わたしは わたしの心が何なのかさえ

 知りません

でも わたしは

 精神的な心を 思い描けます

そして その心に明け渡すことができます

最高に小さいものより もっと小さい何かに

 明け渡すことができるのです

 

 


明け渡しは わたしの究極の到達点です

神の恩恵と わたしの不断の明け渡しに

 違いはありません

 

神の恩恵と

わたしの不断の明け渡しは

 一枚のコインの

  表と裏のようなものです

 

神がわたしに

 恩恵のようなものを与えなかったら

  不断の明け渡しをすることは

   できなかったでしょう

 

神の恩恵を受け取ることが

 真の到達点です

不断の明け渡しをすることもまた

 真の到達点です

 

神はわたしに 思いやりを見せてくれます

それは 明け渡しが何か劣ったものだからではなく

 明け渡しは 何か神が大事に育て 取ってあるもの

  だからです

 

 


わたしは小さい水滴のようなもので

 スープリーム わたしの源は

  広大な海のようなものです

 

水滴が海洋に流れ込むとき

 水滴の限りある個別性と個性はなくなり

  海そのものになります

 

実際に 何かを失うのではありません

それはただ

 存在の光が 想像できないほどに増えるだけのこと

 

同じように

もしわたしが わたしの個別性と個性を維持するのなら

わたしは いつでも

 恐れ 疑い そういった否定的な

  破壊的な性質に

   襲われるでしょう

 

でも 源へ入っていくのなら

 すべてが光と至福である源へ入っていくのなら

そのときに わたしは

 すべての神聖な性質と

  源の持つ受容力を 手に入れるのです

 

 


明け渡しは 知恵です

 真実を知り 真実になる知恵です

明け渡しは 神以外の何ものも

 望みません

明け渡しは 清らかな神を手にします

明け渡しほど 実践的なことはありません

なぜなら 明け渡しは 至高なる秘密を知っているから

 自身を完全に神へ捧げることが

  神を絶対的に所有することだという秘密を

 

 


わたしの欲望は

 「わたしとわたしのもの」を生み出しました

 

わたしの明け渡しは

 「あなたとあなたのもの」を生み出しました

 

「わたしとわたしのもの」は

 砂のヒモよりも

  束の間のものです

 

「あなたとあなたのもの」は

 悠久にあり続ける丘よりも

  不変のものです

 

 


わたしが 読書をするとき 食事をするとき

 料理をするとき 話をするとき

どんな瞬間にも

 わたしは スープリームの膝元にいると

  感じるのです

 

こどもは

 母親の膝元にいるときに

  自分は完全だと 感じます

自分の母親の膝元にいるとき

 世話をするのは

  母親の責任です

 

同じように 精神生活でも

 わたしは スープリームの膝元にいるのだと

  感じるのです

 

 


通常の世界では

 召し使いは一人の人で

 主人は別のもう一人です

いつでも分離した感覚があります

 

でも 祈り冥想するとき

わたしのなかに 神聖な明け渡しのようのものを

 発見します

それは わたしに 神とわたしが本質的にひとつであると

 感じさせます

神は わたしの永遠なる父であり

神は わたしのもっとも輝かしい部分であり

 わたしの源

わたしは いま そこへ昇り

 入っていきます

 

そのため 明け渡すことで

 わたしは 何も失いません

反対に

 わたしは わたしの源へと戻り

  わたしがはじめにそうであったものに なるのです

限りあるものは 意識的に そして喜んで

 限りないところへ 入っていきます

 

 


明け渡しには ふたつのタイプがあります

 

ひとつは 怠惰な明け渡しと呼ばれます

 救いのない服従です

怠惰な快楽にふけるとき

 生活で起こることすべてを

  わたしは受け入れます

これは まったく明け渡しなどではありません

 

もうひとつの明け渡しは

 正真正銘の内なる知恵です

熱い想いの力強さで 実現します

 わたしの限りある意志を

  絶対なるご意志に明け渡すことができるなら

 わたしが望み必要とするものすべてを

  手に入れることができる

ということを 実現します