冥想のとき
集中のとき
すべては事物としてあり
冥想のとき
すべての事物は無となり
三昧のとき
ただ神のみとなる
もし私たちが、今所有しているものや今ある自分に満足しているなら、冥想の世界へ入っていく必要はありません。冥想へ入っていくのは、私たちが内的な飢えを抱えているからです。私たちの内側に、なにか輝かしいもの、広大なもの、神聖なものがあると感じています。私たちはこれらをとても必要だと感じていますが、今は触わることができません。このように私たちの飢えは、精神的な必要性から生じています。
冥想は、ただ五分、十分のあいだ、静かに座っていることではありません。意識的な努力を必要とすることです。マインドは、穏やかに静まっていなければなりません。同時に、気を散らすような考えや欲望が入ってこないように気をつけなければなりません。マインドを穏やかに静めていることができると、私たちの内に新たな創造が現れてくるのを感じるでしょう。マインドが空っぽで穏やかとなり、私たちの全存在が空っぽの器のようになると、私たちの内なる存在は、無限の平和、光、至福をその器に入れて、それらでいっぱいにしてくれます。これが冥想です。
冥想しようとしているのがこの私であると考えると、冥想は複雑なものに思えてきます。しかし、本当の冥想は私たちがするのではありません。冥想とは、いつも私たちの中で、私たちを通して、冥想している内なる導き手、スープリームによっておこなわれるのです。私たちは単なる器であり、その内なる導き手の意識全体が、私たちを満たしてくれるのです。はじめは自分の努力で始めますが、一度内奥深くに入っていくと、私たちの努力が冥想の世界へ連れて行くのではないことを知るようになります。私たちの意識的な気づきとつながりをもちながら、私たちの中で、私たちを通して、冥想している者こそがスープリームなのです。
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冥想は、自発的に、心を込めて、正しく実践される必要があります。そうでなければ、陰鬱な疑いがあなたのマインドを枯渇させ、異常な欲求不満があなたの心に忍び込みます。そしておそらくは、あなたの存在全体が、大きな口を開けた裂け目へ投げ込まれることに気づくでしょう。
冥想のためには、インスピレーションが大切です。神聖な書は、あなたにインスピレーションを与えてくれます。精神的な書を購入するのに十秒を要します。その本を読むのに数時間を要します。その本の内容を吸収するのには数年を要します。そして、その本にある真実を生きるには、一回の生では足りず、何回かの輪廻が必要かも知れません。
冥想のためには、源を求める熱い想いが必要です。肉体的にも精神的にも、精神的な師の存在はあなたの眠れる想いを呼び覚まします。師は、あなたの眠れる想いを呼び覚ますことができます。師は簡単にそうすることができますし、あなたのために喜んでしてくれるでしょう。熱い想い、これは旅のゴールにたどり着くために、まさしくあなたが必要としていることです。あなたは自分の実現について心配する必要はありません。あなたの熱い想いが、その心配を引き受けてくれます。
あなたに実現した魂である師がいるなら、師の沈黙のまなざしが、あなたに冥想の仕方を教えてくれるでしょう。師は、声に出して冥想の仕方を説明する必要はありません。また、あなたに特定の冥想の型を与えることもありません。師は、ただあなたに冥想をするだけで、あなたに冥想の仕方を心の内で教えてくれるでしょう。あなたの魂は、師の魂の中に入り、師の魂から学びます。真の精神的な師はすべて、沈黙のうちに冥想を教えます。
実現された精神的な師が最高の意識に入っているとき、師は師の中の神性とひとつになっています。人間としての個人は、完全にスープリームとひとつになっています。このとき師の意識は、冥想する者が自分自身の心の中で見つけだそうと探している光と直接につながっています。師の意識は、求道者が自身の内奥で探し求めているものを明らかにし、それを与えてくれます。師の最高の冥想と同一になるということは、内で求めるゴールとしての意識を直接に経験することです。このことは、人間としての個人に冥想するということではなく、聖なる意識に冥想するということであり、そのものを明らかにする道具として、その人間を使うということです。
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心とは、魂の座るところです。源と現実は心の中にあります。
あなたが何か、例えば写真、花、ろうそくの火に集中するように、心に集中することができます。
日々の生活の中で集中によって可能となることは、私たちの想像を越えています。集中とは、あなたがゴールにたどり着くためのもっとも確実な道です。矢のようにふるまい、的へ入っていく、それが集中です。
集中は、矢。
冥想は、弓。
集中をするときには、選んだ現象の神秘を明らかにするため、その選んだ現象にあなたの全エネルギーを集めます。冥想するときには、あなたはより高い意識へ昇っていきます。
集中は、集中が励んでいる対象の中を貫こうとします。冥想は、広大な沈黙に生きようとします。
集中において、あなたは対象への意識を、あなた自身の気づきへ運び込むように努めます。冥想において、あなたは限界あるあなたの意識を、より高く広い領域へと持ち上げます。
あなたの能力を磨きたいなら、集中をしなさい。あなた自身を失いたいなら、冥想をしなさい。
冥想が内奥深く、あるいは上方高くへ進もうとするとき、その道を明らかにしてくれるのが集中の仕事です。
集中は、それが目指す知識をつかもうとします。冥想は、それが求める知識とひとつになろうとします。
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集中は、内なる警戒と注意を意味します。私たちの周りと内側には泥棒がいます。恐れ、疑い、心配、不安とは、私たちの内なる平静とマインドの平和を盗もうとする、内なる泥棒です。集中の仕方を身につければ、敵であるこれらの力が、たやすく私たちの中に入って来ることはできません。疑いが私たちのマインドに入ってきたら、集中の力がその疑いを粉々にしてくれるでしょう。恐れが私たちのマインドに入ってきたら、集中の力が私たちの抱く恐れを追いやってくれるでしょう。今はまだ、暗闇の中ではっきりとしない破壊的な考えの犠牲になっていますが、集中の力を持つようになると、かき乱そうとする思考の方が私たちを恐れるようになる日がきます。
集中とは、光を受け入れ闇を拒絶するように私たちの中で働く、マインドのダイナミックな意志です。それはちょうど、私たちの中にいる神聖な戦士のようなものです。熱い想いのある生活の中で、集中によって可能になることは、私たちの想像を越えています。容易に天国と地獄を分けることができます。そうして、私たちがこの地上にいるあいだ、絶え間ない地獄の不安と心配と苦悩の内にではなく、変わることない天国の至福の内に生きることができます。
集中するとき、私たちは何かに入っていく弾丸のようになります。あるいは、集中する対象を私たちの方に引き寄せる磁石のようになります。そのときには、神聖かそうでないか、現世のようか天国のようか、善いか悪いかにかかわらず、どんな思考も私たちのマインドには入ってきません。集中において、マインド全体はある特定の客体か主体に、焦点を当てる必要があります。ある花の花弁に集中しているなら、この世界には、自分とその花弁の他には何も存在しないと感じるようにします。前を向くのでも後ろを向くのでもありません。上を向くのでも内側を向くのでもありません。ただその対象を一点の集中で貫くようにするのです。しかしこのことは、ある事物を見る、またはある対象へ入っていこうとする攻撃的な手段ではありません。全く違います。この集中は、魂の不屈の意志、意志の力から直接やって来るものです。
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とても頻繁に、五分以上集中することができないと、熱望者が言うのを聞くことがあります。五分たつと頭痛がするか、頭が燃えているように感じるのです。なぜでしょう。その人たちの集中の力が、知力によるマインドから来ているからです。それは訓練されたマインドと言うこともできます。そのマインドは、さまよってはならないことを知っています。多くの知識を持っていることを知っています。しかし、そのマインドが正しく照らされた方法で用いられるなら、魂の光は必ずそこに入ってきます。魂の光がマインドに入ってくれば、極めて簡単に何時間でも集中できます。このようなときには、考え、疑い、恐れといったものはありえません。魂の光があふれるほどに注がれていれば、どんな否定的な力もマインドに入ってくることはできません。
このように集中するとき、魂の光が心からきて、第三の眼を通っていくと感じるようにします。そうすると、この光とともに私たちは集中の対象に入っていき、それとひとつになります。集中の最終段階は、集中する対象にある、隠された究極の真実を発見することです。
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集中するときは、ひとつの特定のことに焦点を当てます。しかし冥想するときは、多くのことを見て、多くのことを扱い、多くのことを受け入れる、そのようなすべてを同時にできる能力が私たちの内奥深くにあると感じます。冥想するときは、鳥が翼を広げるように自分自身を広げようとします。私たちの有限の意識を広げて、恐れと嫉妬と疑いがなく、ただ喜びと平和と聖なる力のみがある、宇宙的な意識の中へ入っていこうとします。
冥想とは、無限の世界へ意識的に成長していくことです。冥想のとき、実際に私たちがすることは、空っぽで静まっている穏やかなマインドの中に入り、無限なところそのものから栄養をもらい育ててもらうことです。
集中を通して、私たちはひとつの点となり、冥想を通して、私たちの意識は広大な世界へと広がり、その意識へと入っていきます。そして、三昧〔 冥想の先におとずれる悟りの境地のこと。サンスクリット語のサマーディ。ここでは「三昧」の語を当てた。 〕の境地においては、私たちは広大な世界そのものとなり、その意識はまさに私たち自身となります。三昧において、私たちはすぐさま最も深い集中と、最も高い冥想に入ります。三昧において私たちは、冥想で知り感じた真実の中で育ち、その真実と完全にひとつになります。神に集中しているとき、私たちは神を自分の目の前かすぐ横に感じるかも知れません。冥想のときには、私たちの内に無限、永遠、不滅なるものを必ず感じます。そして、三昧に至るとき、私たち自身が神であり、私たち自身が無限、永遠、不滅なるものであることを知ることになります。
三昧とは、私たちの意識が、限りなく永遠な絶対なるものとひとつになることです。ここにおいて、創造主と創造物、愛するものと愛されるもの、知る者と知られる者とがひとつになります。ある瞬間に、私たちは神聖な愛する者であり、神は愛される至高なる者となり、次の瞬間にはその役割が逆転します。三昧において私たちは創造主とひとつになり、全世界が私たちの中にあることを知ります。そのとき私たちが自分自身の存在を見ても、そこに人間を見ることはありません。光、平和、至福の原動力のようなものを見ることになります。
もし光や平和、至福といった、形のない特別な聖なる資質に冥想するなら、あるいは観念的な方法で、無限、永遠、不滅なるものに冥想するなら、どんなときでも私たちの中に前進していく特急列車を感じるでしょう。平和、光、至福に冥想しているとき、その特急列車が常に動いています。私たちのマインドは、広大な無限の世界で穏やかに静まっていますが、そこには動きがあります。列車は止まることなく、私たちのゴールへ向かって進んでいきます。私たちはひとつのゴールを心に描き、冥想は私たちをそこへ連れていきます。
三昧においては、そうではありません。三昧では、宇宙全体に行き渡り、もっとも遠くにあるゴールを、私たち自身の内奥深くに感じます。三昧の境地にあるとき、限りない光、平和、至福、真実とともに、この宇宙全体が、私たち自身の内にあると感じます。思考も形も考えもありません。すべては三昧の内に溶け合っています。すべては意識のひとつの流れです。最高の三昧において、私たちは意識そのもの以外のなにものでもないと感じます。絶対なるものとひとつであります。しかし最高の冥想においては、ダイナミックな動きがあります。その動きは攻撃的なものではありません。誰かを叩いたり殴ったりはしません。まったく違います。しかしダイナミックな動きは、私たちの意識の中を進んで行きます。内面と外の世界で起きていることに十分に気づいていますが、それらの影響が及ぶことはありません。三昧においても、私たちの内面と外の世界で起きていることの影響を受けることはありません。しかしそこでは、私たちとその全存在は宇宙の部分となり、その宇宙は私たちの内奥深くにあるのです。
こうして集中は警戒のメッセージをもたらし、冥想は広大さのメッセージをもたらし、三昧は分離することのできない一体感のメッセージをもたらします。私たちは、ゴールにたどり着くために集中します。そのゴールである心に生きたいがために冥想します。そのゴールになりたいがために三昧となります。
私たちは、マインドの光り輝く一点に集中します。心が広がる広大さに冥想します。魂の満たされる一体感に三昧となります。
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精神的な旅のはじめには、冥想は自己の努力であり奮闘であると感じます。旅の終わりには、冥想が神の恩恵、神の無限なる思いやりであることを実現します。
その値段は、いつも同じ価値を持つわけではありません。実現の前には、高価すぎます。実現の後には、廉価すぎます。初心者にとって、冥想は最高の現実です。しかし進歩した求道者になると、最高の現実へ導くものが冥想だけであることを知ります。もし長いあいだ無知の中にいて、一生にわたってほんの一分も祈らなかったなら、冥想はその人の意識がたどり着く自然な最高の現実になります。しかし、その人が二年間冥想を実践したなら、冥想そのものが最高の現実ではないことを知ることになります。最高の現実は、冥想の道を歩むときにたどり着く何か、その内で育っていく何かです。
私たちは、インスピレーションとともに旅を始めなければなりません。あらゆる活動において、私たちの内奥に日々インスピレーションの必要性を感じなければなりません。インスピレーションなくして、本当の達成はありません。そのときに、一歩前進することができます。インスピレーションの後には、 が持つきわめて重要な必要性を感じなければなりません。インスピレーションがすべてではありません。黄金の十全なるものにたどり着くため、超越し続けるかなたの黄金の岸を見るため、私たちは熱望する必要があります。これこそが熱い想いから望むものであり、私たちの内で燃え上がる炎です。
しかし、熱い想いだけで十分というわけではありません。私たちは冥想する必要があります。熱い想いは冥想を含んでいます。冥想するとき、私たちは無限、永遠、不滅のなかへ入って行くと感じなければなりません。これらは漠然とした意味の言葉ではなく、私たちが確かに所有するものです。私たち自身の神聖な所有物、つまり無限、永遠、不滅のなかへいつの日か入って行くことは、私たちが生まれながらに持つ権利です。そして私たちが冥想において進歩し、冥想が私たちにその果実を与えはじめるとき、私たちは実現の領域へと入って行きます。私たちはこの体で、この現世において、最高の真実を実現します。神を実現するために、どこか遠くへ行く必要はありません。精神性を実践するために、ヒマラヤの洞窟にこもったり、雪の積もる山の上に座る必要はありません。それは違います。この現世での活気に溢れた生活の中で、精神性を実践するのです。ここに立ち、あるがままのこの現世を受け入れなければなりません。現世を恐れるならば、現世から用心深く距離をとるならば、神の実現はいつまでも遠い叫びとなるでしょう。この現世において、最高の真実を実現しなければならないのです。