質問 瞑想を通してサイキックなパワーを開発できますか?たとえば未来を言い当てたり、奇跡を起こしたりというような。
シュリ・チンモイ 予言は瞑想にそぐわないものです。奇跡を売り物にするのも瞑想にはそぐいません。
けれども悟りは瞑想と完全に調和します。解脱も瞑想に実によく調和します。あなたは本当に神に近づき悟りを得たいと思っていますか。本当に神の無限の光、平和、至福を得たいと願っていますか。
もうそうならば、あなたは予言や奇跡の見せ物から遠く離れているべきなのです。そういうものがあなたを鼓舞してくれると思ったら大間違いなのです。
沈思黙考して、それらがあなたの怠惰で盲目で実りのない好奇心をかきたてるのみだということに気づいて下さい。
その上それらは秘かに、しかもわざとそれ以上の影響をあなたに与えていきます。
それは破壊の前兆たる誘惑です。あなたの人生の神聖なる使命が不成功で、充たされないまま終わってしまうのは、まさにこの点なのです。
サイキックパワーは神を悟るのに助けにはなりませんが、悟りへの道の途中で求道者にやってくることはあります。
それはゴールへ行く途中の美しい樹木や美味しい果物のようなものです。道を歩いている人が美しい樹木や美味しい果物を見つけたら、彼は誘惑されて旅をやめてしまうかも知れません。サイキックパワーを得てそれ以上祈りも瞑想もしなくなるかも知れません。また他人を助けたいと思ったりそのパワーを使って人の心を読んだりするかも知れません。こうして世間の無知が彼を捕え、彼は破滅するのです。
求道者が内的パワーを開発したとき、そのパワーが彼を支配してしまうということが時々起こります。パワーが彼の外的生活の支配者になってしまうのです。彼は自分がパワーの所有者であり、それを間違って使っているだけだと思うかも知れません。けれどもパワーの方が彼を間違った目的に使っているということが大いにあり得るのです。しかし信仰者がいったん完全に内なる導き手と一体になってしまえば、どんなパワーが彼の中に入ろうが、どんなパワーを彼が開発しようが、彼の内的存在が彼を導き、守り、パワーの神聖な使い方を示してくれます。
求道者がゴールを実現したときは、サイキックパワーがやってくることになっています。神御自身がその求道者に全てのサイキックパワーを与えて下さるのです。なぜなら神は、その求道者は神の意志にそったときにのみこれらのパワーを使うということを御存知だからです。たとえば身体の病気への集中の仕方を知っている人がいれば、治せない病気はありません。けれども誰かから病気を取り去った後で、それをどこへ捨てたら良いか知らないかも知れません。すると彼自信まさにその病気の犠牲になるかも知れないのです。あるいは治ることが神の意志ではない人を治してしまったりするかも知れません。ですからこういうパワーは常に完全に悟るまで使わない方が良いのです。悟ってしまえばパワーを間違って使う心配がないからです。