現代社会では、個人主義が望まれています。自由が要求されています。しかし、真の個人主義と自由は、ただ神聖さの中でのみ息をすることができます。明け渡しとは、神の心の中にある魂の疲れ知らずの息づかいです。
人間の個人主義は、暗闇の中で叫んでいます。現世での自由は、人生の砂漠で絶叫しています。しかし絶対的な明け渡しは、スープリームの膝の上で神聖な個人主義と自由のことを普遍的に歌います。
明け渡しにおいて、わたしたちは真実を見る者になれるだけでなく、真実を所有する者になれることを通して、精神的な力を発見します。この真実は全能な力です。もし絶対的な沈黙に明け渡しすることができるなら、わたしたち自身が本当の現実、生あるものの生、真の愛の中心、平和、そして至福になることでしょう。わたしたちは自分自身に向ける無比の祝福となるでしょう。
愛らしい子どもは、わたしたちの注目を引きつけます。子どもがわたしたちの心を勝ち取るために、わたしたちは子どもを愛するのです。しかし、お返しとして何かを要求するでしょうか。いいえ。子どもが愛の対象であるから、愛らしいから、わたしたちはその子を愛するのです。同じように、神が最も愛らしい存在であるから、わたしたちは神を愛することができるし、愛すべきなのです。神聖さへの自発的な愛こそが明け渡しであり、そして、この明け渡しは人生の最も偉大な贈り物です。なぜなら、わたしたちが明け渡しをするときに、神聖さは直ちにわたしたちが要求したかも知れない以上のことを無限に与えてくれるからです。
明け渡しとは、精神性の奇跡です。それは、閉じた眼でいかに神を見るか、閉じた口でいかに神と話すかをわたしたちに教えてくれます。わたしたちが絶対者から明け渡しを取り下げてしまうときにのみ、恐れがわたしたちの中に入り込むのです。
明け渡しとは開かれたものです。わたしたちの肉体、頭脳、心が、わたしたちの中にある神聖な充実の太陽の中に展開されたものです。この内なる太陽に対する明け渡しは、人生の最大の勝利です。わたしたちがこの太陽の中にいるなら、失敗を追いかける者はわたしたちに追いつくことができません。この永遠の生が与える太陽との一体化を実現し、その基礎をかためたとき、悪のプリンスがわたしたちに触れるはできません。
明け渡しと一意専心は、共に遊び、共に食べ、共に眠ります。勝利の王冠は、それらのものです。計算と疑いは、共に遊び、共に食べ、共に眠ります。失望へと運命づけられ、失敗が約束されている運命が、それらのものです。
インドは明け渡しの国です。この明け渡しは盲目な服従ではなく、むしろ限られた自己が縛られていない自己に対してする献身です。「マハーバーラタ」には、明け渡しのことを扱ったよい話がたくさんあります。それらはすべて、その中に偉大な精神的な真実が含まれています。短い話ですが、とても霊感を与え啓示をもたらすパーンドゥ族の女王、ドラウパディのお話をしましょう。邪悪なドゥシャサーナが、冷酷にも彼女の衣服を脱がそうとしたとき、彼女は神の助けを祈っていました。それでもそのあいだ、自分の衣服を握りこぶしできつく握っていました。彼女の明け渡しは完全でなく、彼女の祈りは認められませんでした。ドゥシャサーナは、不幸な女王の衣服を脱がそうとし続けました。しかし、ある瞬間ドラウパディは衣服を握る手を緩め、両手を高く上げて神に祈りはじめました。「ああ、わたしの心の神よ、人生の船頭よ、汝のご意志が満たされますように」と彼女は祈りました。ああ、彼女の絶対的な明け渡しのなんと力強いことよ。神の沈黙は破られました。神の恩恵が、ドラウパディに降ってきました。ドゥシャサーナが彼女のサリーを脱がそうとすると、そのサリーがどこまでも巻きついていることを知ったのです。彼の自負心は、塵にキスしなければなりませんでした。
十分に満たされた神の恩恵が降りてくるのは、人の不断な明け渡しが上へ昇るときだけです。
わたしたちの明け渡しは、とても尊いものです。神だけがそれに値します。わたしたちは他の人に明け渡しすることはできますが、それは神を実現するという目的のために限られます。もしその人がその人のゴールに到達したのなら、かれは精神的な旅にいるわたしたちを助けることができます。しかし、もしただその人を満足させるためだけに誰かに自分を捧げるなら、わたしたちはヒマラヤのようにとんでもなく大きい間違いを犯しているのです。わたしたちがするべきことは、自分の中の神に自分を無制限に捧げることです。
わたしたちのあらゆる行為は神を喜ばせるためにあるべきで、賞賛を得るためにあるのではありません。わたしたちの行為はとても神秘的で神聖なものであるために、他の人たちの前で見せびらかすことはできません。わたしたち自身の前進、達成、そして実現のためにあるのです。
わたしたちの明け渡しに限界はありません。わたしたちは明け渡しをするほどに、さらに明け渡しする必要があります。神はわたしたちに受容力を与えています。わたしたちの受容力に応じて、神はわたしたちの顕現を要求します。これまで神は受容力を越えた顕現を決して要求しませんでしたし、これからも要求することはないのです。
完全で絶対的な明け渡しをするところに、その人の実現、つまり自己の実現、限りない神の実現があるのです。