惜しみなく自らをささげる自己譲与の行いは、神への成就に向けてさらに一歩先に踏み進める。
行いを完全なものに高めるには、私たちが行為主体ではなく、至高の神スープリームだけが唯一の行為主体なのだと感じていなくてはなりません。
何かの行いに駆り立てるひらめきとて私たちのものではなく、その行いの成果も私たちのものではないと感じるようにするのです。私たちはスープリームの道具の存在に過ぎないと感じることができると、行いを完全なものに高めてゆけます。
慈しみの限りを尽くして精一杯
他の人々の手助けをしているつもりでいては、
思い違いもはなはだしい。
しっかりと感じていなくてはなりません、
奉仕という至純の微笑みを
人のこころの中におわす至高の神スープリームに
ささげているのだと。