しかし、ただ単に与えたり、捧げたりするだけでは十分ではありません。強く内から駆り立てられる情熱でもってなされなければなりません。私達は自分自身の中のインナーパイロットと、そして、他の人の中のインナーパイロットに何かを捧げるのですが、他人に何かを捧げる場合、その人の中の神聖さに与えている、その人の中の至高なるものに捧げているのだと考えなければなりません。誰かに神聖な愛を捧げるには、それをゆっくりとそして、魂を込めてしなければなりません。しかし、与えている時に、自分がその人を助けている立場にある事から、自分がその人に偉大な恩を与えているなどとは決して思ってはいけません。私達の方が偉いなどとは決して思ってはいけません。私達は次のように考えるべきです。神様が自分にその人に奉仕するように、偉大な機会を与えて下さったと。そして、その人に感謝するべきです。その人の中の至高なものに奉仕し、助けるように自分を就かせてくださったことに。私達は感謝するべきです。他の大勢の人の中から、自分がその道具として選ばれた事に。私達は常に感謝を表すべきです。神様が私達を任って下さる事実に。このような献身は、貢献としての奉仕なのです。
次に服従です。ここで言う服従とは、奴隷が主人にする服従ではありません。普通、主人とは奴隷の悪いところを見つけるものです。なぜなら、自分はいつも完璧だと思っているからです。しかし、スープリームの場合そうではありません。スープリームが私達を取り扱う際には、私達の不完全さはスープリーム自身の不完全さであると考えるのです。スープリームが私達の資質の中に間違いを見つけたら、それらはすべてスープリーム自身の間違いであるとするのです。私達が完全にならなければ、スープリームはスープリーム自身が完全であるとは考えないのです。神様は全知全能であり、遍在するものです。これは真実です。しかし、地球上での完璧な体現に関しては、私について、あなたについて、皆について、まだ不完全であると考えています。完璧な完全さのメッセージはまだ地球上には降りていないのです。私達は神様に全霊を込めて服従しますし、私達が持っているものは無に近い事を、そして、私達は無に近い事を完璧に知っています。私達のこの無を神様に与える時、私達はスープリームの選ばれた道具になる事ができ、私達の中で神様の完全さが育って行く事ができるのです。
愛と充足と神はいつも共に歩んでいます。神様は何かが不完全であったり、理解できていなかったり、充足できていなかったり、体現されていない事には、決して満足しません。神様は私達に悟りと啓示と体現と完全さを求めています。この一生でこれらの事がなされなかったら、私達はあといくつもの輪廻をくり返さなければならないでしょう。しかし、神は誰ひとりとも、悟りや啓示なしでは終わらせません。今日はあなたが神を悟る時です。明日はあなたの友人が神を悟る時です。明後日は誰か他の人が神を悟る時です。それぞれの人に時期というものがあるのです。それは、「神が決めた時間」と呼ばれています。神が決めたその時間にその人が神を悟る事になっているのです。私達の道は真実を知るために何万もの本を読まなくてもいいので、ある意味で簡単で効果的であると、私達は感じています。私達は、真実がどんな形をしているのかを知るために、毎日毎日マインドを使わなくてもいいのです。決してそうではないのです。真実とは私達の中にあるのです。そして、表に出たいと言って叫んでいます。しかし残念ながら、私達は扉を閉じてしまっているので、真実は出られなくなっているのです。