愛には別の名があります。自己犠牲です。純粋に自分をささげる自己犠牲があれば、愛も神々しいまでのものであると、「私のもの」もなく「神のもの」もありえません。
私ごころのない愛では、愛があるだけで見送りに何一つ望むことがありません。崇め憧れる対 象と一つになっているのです。この愛にあってはごくわずかの慎ましやかな感じがあって、愛の対象なる方がこの上ない果実をくださるだろうと告げるだけのこ とです。これが欲しい、あれが欲しいと言って気の向くままやっかいごとを無心したり、おろかな欲で愛の対象をわずらわすのはしなくなっているからです。私 ごころのない愛では、そうした段階はもう終わってしまっています。
スィーカーにはちゃんと分かっていて、すばらしいものを、持つに値するものを至高の神スープリームがお与えてくださるのです。だから何ひとつ欲しがる必要がありません。これが私ごころのない愛です。
わざわざ明かし示す必要はありません。
神のあなたへの愛を。
ただ思いをいだき続けなさい、
神への愛のためにだけ 命を宿していると。