神の御意志が自分の意志になっても、何かを諦めなくてはならないわけではありません。神はあらゆるものと共にあられ、あらゆるものの中におわすからです。
神聖な想いをそらす誘惑となって現れたものに打ち勝つには、どうしたらよいでしょうか。そうしたものに打ち勝つには、ただ全面的に委ねるサレンダーがある だけです。もちろん、そうした誘惑に白旗を掲げるサレンダーではなく、神性の光、神性の大いなる意志に対してすべてを明け渡すサレンダーです。ではどのよ うにするのでしょうか。
それは瞑想の中にあって、私たち自身が楽器であり、誰かほかのひとがこの楽器を奏でている、と感じるように意識的に努めるのです。
それでは、その誰かほかのひととは何者でしょうか。内なる導き手インナー・パイロットです。私たちが行為主体なのだと思っていては、神聖でない、神に反す る諸力にからかわれるはめになります。そうした力がやって来ると、つまらぬことを鼻にかけるようにしたり、ひどく傲慢にしたり、神聖でない不純で不安定な ひとにしたりします。ですから瞑想をしながら、至高の神スープリームにこのように祈らなくてはなりません。
「ああ、主よ、私はあなたさまがお用いくださる楽器や道具です。しっかりした自意識を備えた楽器・道具にしてくださって、とても深く感謝しております。どうか、あなたさまのお望みの方法でお用いください。」
外側の私のいのちは
決して成功を収めることにならず、
内なる私のいのちも
決して前に進んでゆきません。
もし全く新たに生み出さないままでいるのなら、
明け渡す中に生きる サレンダー道を。